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- 病院長からのメッセージ(2011.04.05)
病院長から
東北大学病院の取り組みと得られた教訓 (2011.06.21)
東北大学病院 病院長
里見 進
東日本大震災による被害
3月11日の14時46分に発生した東日本大震災は、牡鹿半島の東南東約130キロの三陸沖を震源とするマグニチュード9.0最大震度7.0の大地震?大津波によりまして青森県の沿岸部から茨城にかけた東日本に壊滅的な被害をもたらしました。
東北大学医学部の研究室などは大きな被害を受けましたが、幸いなことに制震構造であった大学病院の病棟では、患者さんの被害はなく、また職員の被害もなかった点が救いであり、復興に向けた足取りを着実に早い時期から踏み出すことが出来ました。
地震からこれまでの経緯をまとめ、そこから得られた教訓をまとめておきたいと思います。
復興へ向けての道筋
当院の復興の道筋を震災直後の初期段階で表のように四段階に分けて考えました。
第一段階として入院患者および職員の安全確保と緊急のトリアージ体制を確立すること。第二段階として病院機能を出来るだけ早く復旧して仙台市の周辺への支援をし、トリアージを継続すること。第三段階として、県の内外医療機関への支援を行うこと。第四段階として避難所の長期的な診療体制の整備と病院の正常機能への復帰です。
これらの各段階は一部オーバーラップしながら進行することになりますが、おおよそこの手順でやっていこうと考えました。
第一段階:入院患者および職員の安全確保と緊急のトリアージ体制の確立
3月11日の地震発生の直後、揺れが収まった20分後には、従来の訓練通りに東病棟の会議室に対策本部立ち上げを宣言し、それと同時に40分後にはトリアージポストを設立しました。
対策本部では毎日朝の8時と夕方の4時に2回、100人くらいのスタッフが集まってその日の行動計画と結果を確認する形で会議を進めました。
トリアージポストは、救命救急センターの場所に赤や黄色の部署を設置し、緑に関しては外来の正面玄関にこれも兼ねての手はず通り設置しました。
透析患者さんや在宅酸素療法の方々のほか外来患者さんで帰宅できない方が、病院に残りたいという希望がありましたので、外来棟を整理して一時的に収容できるような体制を取りました。ただし、診療体制の混乱を避けなければいけないので、一般の元気な方々に対しては、病院ではなく避難所の方に行ってもらうようにしました。
その日は無情にも大雪になり、大変寒くなりました。今年は天候も異常でその後の1ヶ月間も4月の半ば過ぎまで時々雪が降るという、過酷な気象条件が続きました。
これまでの震災と違った特徴
今回の大震災の特徴は、家屋の倒壊が少なかったことです。これは多分、1978年に宮城県沖地震を経験し、その時は今回よりも遥かに弱い揺れでしたが家屋の倒壊やブロック塀の倒壊等で結構な方が仙台市でお亡くなりになりました。それを反省し、宮城県沖地震は30年ないし40年に1度は必ず来ると言われておりましたので、県や市が対策をしておりました。かなりのお金を掛けて、耐震補強などが行われておりましたので仙台市内はほとんど倒壊がなく、結果としてクラッシュ症候群等の重症の外傷患者が少なかった。それに引き換え津波による被害が激烈であったことが後でわかりました。震災直後には、我々は最前線の病院としてこれから2ヶ月間は病院の廊下も使う、いわゆる野戦病院のような医療をやらざるをえないということを想定しておりましたが、実はそうではありませんでした。
大学病院が野戦病院化しなかったことで最前線の病院を支援する体制を比較的早期に整えることが出来たと思います。
第二段階:病院機能の復旧と仙台市周辺の医療機関への支援、およびトリアージの継続立
実際のトリアージの数は3月15日までに緑が582?黄色173?赤73?黒10で、第二段階のトリアージの継続と周辺の医療機関への支援を早期に開始しました。
通常の外来は中止をし、手術は緊急手術だけに対応出来るように体制を整えました。手術室を含む中央診療棟は壊れておりましたので、従来ですと局所麻酔手術専用に使用していた東病棟の2部屋を全身麻酔ができるように手直しをして、緊急手術に対応する体制を整えました。
早い段階で被災地の病院の情報を収集し、避難所等の医療が惨憺たる状況であるとの情報で寄せられましたので、全国の大学病院に支援要請を行いました。仙台市内の病院からの入院患者を受け入れ、県内の病院への医師の派遣を震災4日目からは開始しました。最前線の病院や避難所に大量の医師、看護師さんを送り込む際に、私が全員にお願いしたのは、「専門性を忘れて全ての医者が総合医として活動して欲しい。」ということでした。
初期研修医は全員救命救急センターへ配属するということをきめ、トリアージや初期治療に関わってもらいました。
食料、医薬品、器材の調達
災害緊急時体制で最初に危惧したことは、食糧不足であります。当院では、3日間の備蓄をしているということになっておりました。ただ、よく調べてみますと患者さん用はありましたが、職員用は準備されていませんでした。患者さんが1,000人強、職員は2,500人ぐらいおりますので3食食べますと1万食ぐらいが一日で無くなります。もしかすると職員の食事がなくなり飢えてしまい病院として機能しなくなるのではないかと危惧もあり、緊急支援を全国の大学病院にお願するとともに、東京に残っていた関係者に頼んで出来るだけ食糧を買って届けることをお願い致しました。お陰さまで震災の翌日からたくさんの病院から色々な支援物資が届きました。
医薬品も3日間しかない、器材も1~2週間ということで、これも緊急支援の依頼を致しました。それと同時に、薬剤もリストを作って1ヶ月分くらいは購入することにしましたが、合計4億円ぐらいかかりますと言われ、一瞬戸惑いましたけれども考えてみれば、前倒しをして買ったと思えばいいわけで、これも出来るだけ沢山購入して送ってもらうようにしました。
患者さんに対しても出来るだけ早い時期から暖かい物を食べていただく工夫も行いましたので、「大変な時期に暖かい食事を出していただき有難い」という声が寄せられました。患者さんと職員が一体感をもってこの何ヶ月間を過ごしたのではないかと考えております。
情報と交通手段の障害
外部との連絡手段としては、携帯等の通常の手段は全く不通となり、衛星電話と災害用MCA無線だけが頼りでありました。
交通手段が全く無くなりましたので、大学の多くの学部にお願いし、大学病院に運転手つきで車輛を集めてもらいました。これらの車は大学病院が外部の病院や避難所を支援する際に大変役に立ちました。
支援物資は地震翌日から続々と集まり、一時は大学病院の倉庫が満杯の状態になりました。大学病院や学会、病院財団、官公庁、企業、個人等多くのご支援に御礼申し上げます。
我々は県内外に医師や看護師を派遣すると同時にこの物資を運んで支援をすることにしました。前日に準備をしてどこの病院に持っていくかを決め、朝に車輛に積み込んで出ていくということを繰り返しました。
無線は、県が各病院に配置をしておりましたが、残念ながら使い方がわからないという病院もそれなりにあったようで日頃の訓練の必要性を痛感したようです。限られた手段で細々と各関連病院等と連絡をとり情報を集める努力をしましたが、実際に本当の情報として役に立ったのは、派遣先の病院から戻ってきた医師の情報でした。
震災が起こった3月11日は金曜日で沢山の医師が色々な病院にアルバイトに出掛けておりました。彼らが一日や二日して帰って来てその時に寄せられた情報というのが本当に正しい情報で、それを県にも提供することができました。
他院からの患者受け入れ
職員は努力をして一般病棟は常時100床以上を空床にし、救命救急センターは常に10床確保して患者さんを受け入れる体制を常に取り続けました。災害拠点病院に指定されていた仙台市内近郊の病院もそれなりの被害を受け、特に厚生年金病院はライフライン等が破壊され一時入院患者の大部分を他病院に搬送することになりました。東北大学病院も40人ぐらいの患者さんを受け入れています。
他院からの医療支援チーム要請と受け入れ
震災2日目に被災した関連病院に勤務?出張していた医師が当院に戻り、話を聞いたところ被災地にはほとんど医療チームが行っていないということが分かりましたので、緊急で医療チームの派遣依頼をしなければならないと思い、全国の大学病院にお願いをしました。
その時に強調してお願いしたことは、「自己完結型の医療チームの派遣」の要請でした。「食糧も医薬品も持参をして、交通手段もどうなっているのか我々もわからないので、自分たちで確保して、宿泊施設も準備できないので野宿覚悟で来てください。さらに治安が悪化している可能性があるので身の安全も保障出来ない。こういう過酷な状況ですが、とにかく急いで駆け付けてください」という本当に勝手なお願いをしました。それにもかかわらず本当にたくさんのチームが快くその要請に応じて駆けつけてくださいました。
多くのチームが石巻や気仙沼、南三陸それから県南の沿岸部に、また、福島や岩手の方へも入って医療を支えてくださいました。全国の皆さんに感謝申し上げたいと思います。
各医療チームが私たちの病院に訪れた時に、「現地では何が起きているかよくわからない。ただ、皆さんに行ってもらうことが今必要なことは明らかで、皆さんでなければやれない医療をこの国難の時にやって欲しい」ということを話し、最後は本当に身の安全を守りながら行って欲しいという願いを込めてお送り致しました。そういう皆さんが帰って来て、情報を提供してくれるので、それをもとにして現地の要望に見合った支援をしようと心がけました。
ボランティアの組織化や災害のコーディネーターの配備が宮城県でも実施されていましたが、通信手段が少なく、県と現地のコーディネーター間の連携は不十分でかなりの混乱を生じておりました。
発災2日目頃には医療チームがほとんど入っていなかったので、緊急の医療支援をお願いしましたが、その後依頼を受けたチームが準備を整えて3~4日後に現地に入ったときには被災地の状況は一変し、今度は逆に物凄い数のチームがいる状態になっていました。報道では3県合わせて15,000人ぐらいの方々が医療支援に入ったということです。その結果、医療チームが多すぎ、しかも急性期の医療が必要な患者さんがいないので、仕事がない医療チームもたくさんあったとのことです。お願いして来てもらったのにすぐに引き上げをお願いしたり、せっかく準備したチームに電話で待っていただくこともありました。
早期の医療チームに出番が少なかった理由は、今回の地震では建物の倒壊が少なく、その半面、津波による被害が甚大であったことです。そして津波から逃げられなかった方は殆ど亡くなり、逃げられた方々は少なくとも歩ける方ばかり、つまり、「生きているか死んでいるか」のどちらかにはっきり色分けされた状態になったということです。このためこれまでの震災と違って建物の中から人を助け出してそれに対する処置することがほとんど無く、最初から慢性期に近い医療が要求されるような状態になっていたようです。
第三段階:県内外の医療機関への支援強化
支援をするなら、結果が出るような支援をしなければならないと考えました。我々は関連病院にどういう医師が行っているか知っています。そうすると、彼らがどういう顔をして働いているのかも想像できます。そして、あの性格の男がこれだけ音を上げているのなら、きっとものすごいことが起きているにちがいないと察することができます。そういう意味では、相手の顔が見える分だけ真剣にある種の必死さを持って支援をやり遂げようと努力できるのではないかと思います。その当時の我々の合言葉は「前線の病院を絶対に疲弊させるな!」ということで、全力で裏方に徹することにしました。
石巻赤十字病院は、さながら野戦病院になっている状態が次第に分かってきましたので、沿岸部の最前線の病院で機能している病院に定期的に大量の医師を送り込むことにしました。
石巻赤十字や気仙沼への医療チームは、朝集合しマイクロバスに乗りそれぞれに派遣されました。人手も支援物資も大量になった時は、大型のバスを借りて、定期便と称して、人と物資を送り続けました。1ヶ月余りの間に合計1,500人を超える人たちが派遣されたことになりますが、これ以外に、自家用車でもたくさんの人たちが出掛けておりますので、たぶん2,000人強の人が出掛けて行ってそれぞれの支援をしたと思います。
被災地の透析患者さんは、東北大学病院にいったん受け入れて透析を行い、数日後に飛行機を使って北海道に搬送しました。今、徐々にそういう方々が現地に戻ってくる状況になっております。
ヘリポートを使った搬送も行われました。各地の救急車がたくさん集結しかなりの数の搬送を行いました。
この間の入院患者さんの動きをみます合計で1000名余になり、遠方の被災地からは、311名ほどです。一時的ではありますが遠方からの患者さんが、最大で病棟に270名程おりましたので、入院患者の4分の1ぐらいが遠方から受け入れた患者さんになりました。
同時ころに感染症チーム、眼科、耳鼻科、老虎机最新平台 _mg游戏官网-电子网站、皮膚科、歯科など専門家チームが避難所への巡回を開始し、診療を支援する形を作りました。
気仙沼や石巻への医療チーム派遣
ヘリコプターにて搬入される被災地の患者
各地から被災患者を搬入する救急車
第四段階:避難所の長期的な診療体制の整備と病院の正常機能への復帰
被災地の医療支援で一番問題だと思ったことは、多くの避難所に短期滞在型のチームが多数入り、なかなか統制がとれていないということです。そこで現地のコーディネーターの方と相談をして、いくつかのエリアを区切り、1ヶ月間以上滞在できる長期滞在型のチームを分担配置することで長期戦に備えるエリアライン制を導入しました。それまでは避難所に救援チームを出来るだけ送り込もうということで、沢山のチームに入ってもらっていましたが、来る時期といなくなる時期がまちまちで、統制がとれないということで、最終的には短期のチームは手伝いのチームにして、長期間滞在するチームを中心にして医療体制を組織化して行きました。現在もこの体制を維持していただくために10を超えるチームが滞在しております。
今後のことを考え、我々は宮城県の中の医療チームだけで支える体制を作ろうと今、努力をしております。
専門的な立場からの医療支援も行いました。感染症のグループは避難所等に出向き生活の衛生面も含めて注意事項を整備し、感染予防8カ条のパンフレットを作成して各避難所に注意を促しました。感染症やインフルエンザ等が蔓延しないよう活動をしております。眼科のチームは診療所機能が整えられているマイアミ大学より借りてきた眼科診療バスを使い被災地に出掛けて行って治療を行いました。
その他の活動としまして、歯科の先生方は、かなりの数の検視業務を引き受けておりましたが、これは彼ら自身もPTSDになるような悲惨な状況での活動だったようです。
原発問題
地震と津波以外に問題となったのは福島第一原子力発電所の問題であります。
これまでも当院では、宮城県に女川原発があり、被爆を想定して色々な訓練をやっておりましたので、それに則って様々なことを行いました。入口に立ち常に放射線の量を測定して、計測値を公表し、心配のないことを職員に周知徹底をして動揺を抑えると同時に、除染作業を徹底的に行うことにしました。
「福島から来た」というと避難所へも受け入れない状況になっていましたので、当院でサーベイと除染を行い、避難所でも受け入れてもらえるように非汚染証明書を発行しました。この作業は24時間体制で行いました。
イスラエル医療チーム問題
イスラエルの医療チームが南三陸に入ることになった際に、私はかなり反対をしました。別に外国への差別の感情があるわけではありません。急性期の治療ですと言葉が通じなくとも痛みに対する傷の治療が出来るのですが、この時期にすでに慢性期になっており、しかもこの地域は高齢者がほとんどであります。日本人の医師ですら非常に気を使いながら診療をやっている時に、通訳を介しての治療が果たして役に立つのかが一番問題でした。さらに長期滞在型の医療チームが患者さんをピックアップして気仙沼?石巻の病院に搬送し、そこで手に負えなければ大学病院に搬送するというルートが出来上がっていた時に、異なる考えの医療チームが入ってしまうと医療体系がかなり混乱をするのではないかと考えたからです。
ただ彼らが来てみて、驚いたのはその装備でした。かなり高度な医療機器を持って来ておりそれを街に寄贈して帰りました。それを基にして現在、診療所が出来ております。
なぜ我が国ではこれらの装備を備えた診療所をすぐに作ることが出来ないのか、豊かになっているはずの日本にそのような準備がないのはおかしいのではないかという疑問を非常に感じた次第です。
地域の復興に向けての東北大学の役割
今、宮城県では、ワーキンググループを作って短期?中期?長期の医療体制を再構築する話し合いが始まりました。東北大学病院では4月の早い段階に、復興のプロジェクトを副病院長中心に作成しました。その骨子は、時限的医学部の定員増や災害診療プログラムの作成、災害医療センターの設置、災害診療研修プログラムの作成などです。
実際に沿岸部は、かなりの病院が壊滅的な被害を受けましたが、これを以前と同じような形で復旧するのは全く不可能だと考えておりますし、そのようなことはやるべきではないと考えております。
医師だけでなくコメディカルも含めた人事の交流というのを活発に行う体制を作って医療過疎と言われている地域が再生するような復興モデルを作り上げるべく協議を重ねております。
復興の足音として、象徴的な出来事がありました。1ヶ月後の4月14日に、ちょうど仙台空港が一部開通をした翌日だったと思いますが、肺移植が東北大学で行われました。移植が出来るほど東北大学病院の機能が回復したという本当に象徴的な出来事だったと考えております。
それからさらに1ヶ月後、活動の拠点を失っておりました仙台フィルに大学病院に来ていただき、鎮魂と復興の意味を込めてコンサートを開いていただきました。最後に「ふるさと」を皆で合唱しましたけれども、この2ヶ月間のことが想起されて、今思い出しても涙が出るような感動的なコンサートでありました。
仙台フィルによる 鎮魂と復興のコンサート
今回得られた教訓
東日本大震災から2ヶ月余が過ぎました。この間の活動の中で得られたことは、後世に伝え残さなければならないと思っております。これまでの災害でも先人はいくつかのことを学んだと思います。
宮城県沖地震?兵庫県南部地震?中越沖地震等で学んだことは、耐震補強建築は非常に効果的だということです。日本の建築技術で耐震補強をしっかり行うと、震災では倒壊が起こらない可能性があります。直下型ですと話は別かも知れませんが、少なくとも沿岸で起こった今回のような大地震ですら殆ど倒壊が起きていないということを考えると、耐震補強は全国規模で真剣に行う価値があります。
それから、色々な災害訓練は大切です。大学病院では宮城県沖地震を想定し、災害対策本部の立ち上げや、トリアージや除染作業の訓練を比較的真面目にやりました。そして、その訓練は本当に役に立ったと思います。災害対策に関して多くの慣れている人たちを作るということは意義がありますので是非行うべきと思います。
食糧は最低でも1週間必要であり、医薬品も2週間程度備蓄されていた方が安心すると思います。それからエネルギー、自家発電の装置がありますが、能力的に落ちているので、もっと大きな自家発電を装備する必要があります。
通信手段がこれだけ進歩している現代にもかかわらず、災害時にこの程度の通信手段しか使えないのかという不満がありました。情報系の方々には必ず改善をしていただきたいと思います。どんな地震があっても、正確な通信情報が可能な体制を作ってほしい。情報が入らないということは本当に不安ですし、間違った指令を出しかねないのでこれは大事だと思います。それから輸送手段の見直しをして、燃料の備蓄と分散を国として是非やって欲しいと思いました。
緊急医療支援のDMAT等は全国的にかなり整備されているのがわかりました。今後、全ての県で同じようなチームを作って常備する体制にすると、災害医療は随分変わるのではないかと思います。
ただその医療チームの派遣が、今回はあまり秩序だってなかったことは反省すべき点かと思います。ある時ある地点にはものすごい数の医師が居りましたが、ある地点を見てみると全く医師が居ない状況もありました。国のレベルである種の統制をして災害の規模に応じて、例えば今回は廻りの10県だけの出動、災害の規模が大きければ20県に出動を要請し、他の県は出動を控えてもらう、そのような統制のとれた派遣をすればもっと効率よくなるし、混乱なく医療支援の体制が出来るのでないかと考えます。
そして急性期、亜急性期、長期に起こる事象に対応する医療チームの編成を行い、約1ヶ月間のスパンで最初は外科系の医師を中心に、次に内科系の医師を中心にするような流れを作っていくと、様々な事象に対処できる体制になると思います。それと現在は、医療は医療、介護は介護、福祉は福祉のチームで、それがみんな別々に被災地に入って支援をしているという状況でしたが、これは非常に無駄が多いので、チーム編成の時には、こういう方々も一緒になって作っておくと、迅速で効率的なものが出来るのではないかと思います。
それから、仮設診療所を迅速に作る準備は、それほどお金がかかる問題ではないと思いますので、早急に整備すべきです。国レベルで準備して、用が終われば解体をして備蓄することを行えばいいだけのことです。同様に、診療機能を備えた車輛もいくつか準備をしておく必要であると思います。
今回、心強く思ったことは、私たちの大学病院は最後の砦として充分に機能することが出来たということです。同様な機能は全国の大学病院にも十分に備わっていると考えます。その機能を災害時に発揮できるようにするには、大学病院の建物、少なくとも病棟に関しては、免震構造を持った物を作っておくことが必要であると考えます。
今後は地域の復興に向けて大学病院の英知が必要になります。それに応えうるだけの力を大学病院は十分に備えている組織です。
これまで各地で大災害があり、それぞれに記録が作られています。私たちも今回の大震災の被災地の中心に居た大学として記録を残し、後世に伝えて義務があると思っております。
二ヶ月余の間、多くの皆さまから様々な支援をいただきました。整理がまだ十分にできていないために、御礼も申し上げずにおります。この場を借りまして心より御礼申し上げたいと思います。本当に有難うございました。
病院長からのメッセージ(2011.04.05)
この度の東日本大震災において被災をされた皆さまには心より哀悼の意をささげます。
3月11日の激烈な地震を受け東北大学病院も研究棟や外来棟、検査室、手術室に甚大な被害があり、また一時は電気、水道、ガスなどのライフラインが停止するなど混乱が生じましたが、職員が総力を挙げて復旧に努めた結果、現在はほぼ通常通りの診療ができるまで回復しました。外来は通常通り、またすべての手術室も整備が終わりフルに稼働できるようになっております。
東北大学病院は病院自体が被災を受けましたが、震災直後から復旧の過程を四段階に分けて考え、病院の体制を整えながら手順を踏んで県内外の医療体制を支えるべく行動してきました。これらの詳細は後段に記しますが、概略しますと、第一段階としては、入院患者および職員の安全確保と緊急のトリアージ体制の確立、第二段階としては病院機能の復旧と仙台市周辺の医療機関への支援およびトリアージの継続、第三段階は県内外の医療機関への支援強化、第四段階は避難所の長期的な診療体制の整備、病院の正常機能への復帰であります。現在はほぼ第四段階の半ばまで達成できたと考えております。
今回の震災の特徴は地震の揺れそのものによる被害よりもその後の津波による被害が激烈であったことです。特に仙台市周辺は30数年前に起こった宮城県沖地震の経験が活かされ、市や県の耐震補強の対策が功を奏したのか、家屋の倒壊による負傷者が予想以上に少なかったと思います。このことが幸いし東北大学病院は野戦病院化することなく、最前線の病院を支援する体制を比較的早期に整えることができました。
私たち東北大学病院の現在の使命と合言葉は「最前線の病院を絶対に疲弊させないように全力で裏方に徹する」です。このことは毎日開かれている朝夕の対策会議で常に確認し合い、最前線の病院や被災地が求めている支援を、その要望に沿ってかなえられるように最大限の努力をしてきました。この間、不自由な中でもそれぞれができることを工夫する知恵を発揮して難問を解決し、士気も高く、医療の最後の砦としての役割を粛々と果たしてきた職員を、私は病院長として誇りに思っております。
震災後3週間余が経過しましたが、まだまだ被災地は多くの問題を抱えています。これからが本当の意味で我々の力が試されているのかもしれません。国の内外から寄せられている多くの皆さまの物心両面からのご支援を支えに、東北地方の医療の再興を目指して努力をしていきたいと思います。
平成23年4月5日
東北大学病院 病院長
里見 進